serial experiments Lain について

Lain について書くというのは、ちょっと大変なことです。
どうなってるのか分からないこともたくさんありますし、いろんな解釈が可能で、ファンは各々の思い入れがあります。
ここでは、僕の個人的な思い入れを書いていく、ということになるでしょうか。

ちなみに、読む人が Lain を観たことがあるかどうかは、無視して書いていきます。
つまり、ネタバレが出てくる可能性が高いということです。
そうしないと、筆力がなくて書くことが出来ません。一応、ご注意下さい。

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<Layer 01>


そもそもはRPGゲーム先行で企画された作品です。
このゲームのストーリー展開は大変プレーヤーを落ち込ませるものであるらしいのですが、僕自身はよく知りません。
もともとキャラクターデザインの安倍吉俊氏のファンで、彼が参加したアニメーション、ということで観た作品です。

数年前、多分ビデオがリリースされた頃です。
レンタルで初めて見た時には「よくわからない、、」という感想でした。
ストーリー自体がどうなってるのかわからない。
伏線は縦横無尽に張ってあって、しかも張りっぱなしだったりしますし。
舞台を構成する題材は、ネットワーク関連の専門用語から超常現象に至る非常に広範な範囲です。
しかも、説明らしい説明はないし。
あと、いちいち描写がこわい。ホラーというかサイコというか。
何回か繰り返し借りて観たと思います。

非道く陰鬱なアニメだなぁ、と思いましたが、不思議な印象が残りました。
誰もいない新興住宅地の道路を、ひとりでぎこちなく歩く岩倉玲音の姿が。

それがずっとひっかかっていて、昨年秋にDVDをそろえることにしました。
久しぶりに観た Lain は、以前とは随分印象が違いました。
今さらですが、「Lain というのは問題作とかいうよりも、傑作とか名作というのがふさわしいんだなぁ、、」と思いました。
ホラーでサイコというのはそうなのですが、同時に不思議な温かさを感じました。Lain を他には替え難い作品として成り立たせているのは、この不思議な温かさだと思います。
それがなかったら、様々な意匠を取り込んだ如何様にも解釈可能な問題作で終わる。
そしてそういう作品だったら、案外他にもありそうです。



この不思議な温かさが何に由来するのか。


しかし僕は、これを最初から感じていたわけではありません。
物語は、DVDで全5巻、13話で構成されています。
はじめに描かれるのは、岩倉玲音という少女の危うさです。
ひどく気弱で無口で自発性皆無で、同年代の友人らに溶け込めない。
いつも不安そうでびくびくしている。
誰の目にも留らないような存在。
極端なことをいうと、存在していること自体が苦痛に見えるような。
そんなキャラクターとして玲音は描かれます。


人によっては、第1話を観た時点で続きを観るのを拒絶してしまいそうな作風です。
多分、その選択はまちがっていないでしょう。
いやだと思った人は見るのを止めた方がいいと思います。
万人から好かれる作品では、全くありません。
こんなこといってはあれですが、玲音のような要素、存在すること自体への不安感を心のどこかに抱えた人間でないと、この作品は好きになれないような気がします。


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<Layer 02>


存在すること自体への不安感と書きました。
Lain という物語は岩倉玲音/レインの存在自体を軸に展開していきます。
彼女自身、自分の存在について悩み葛藤し続けます。

グローバルネットワークと超常現象を結び付けたSF的な設定。
その世界は有機体のように重層し絡み合って、まるで果てがないかのような圧倒的な存在感があります。
しかし、レインがそんなリアルワールドとワイヤードを抜けたあとには、なんにも残っていませんでした。

ただ、レインだけに物語は集約し、答えを出さないまま幕を閉じます。
結局この物語は、唯々レインを描くだけの物語だったのだと思います。
レイン以外のことは、実はこの物語ではあまり重要ではないのだと思います。

考えてみたら、最初から最後まで、この物語の中でリアリティがあるキャラクターはレインだけのような気がします。
あとは、レインに係わっていこうとしたありす、かなぁ。
しかし、メインキャラクターの中で一番現実にいそうでリアリティがありそうな少女であるありすは、
この物語の中では常に違和感を感じさせる存在です。
レインが感じ取った世界そのものが「Lain」という作品として描かれている。そんな中で、ありすは唯一レインにとって自分の外の世界に属する者だった。

だからレインは、彼女の記憶を書き換えることが出来なかった。
記憶を書き換えることは永遠にありすを失うこと。
ならば、傍にいるよりも遠くでみている方がいい。
だからレインはリアルワールドから去らなくてはならなくなる。

アプリケーションのくせに、なんと人間的なんでしょうか。



初めて観た時には、僕は物語の中に置き去りにされました。
リアルワールドとワイヤードから出られなかったような感じ。
しかし、昨年秋に再び観た時には、レインとともにそこから抜け出すことが出来たような気がします。

抜け出した先には、なにもない。ただレインがいるだけだった。
というか、この作品の中には、そもそもレインとありすしかいないような気がします。
レインが感じ取った世界そのものが「Lain」という作品として描かれている、と書いたのはそういう意味です。


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<Layer 03>


この作品が出てきた当時、エヴァンゲリオンと比較されることがあったようです。

エヴァは、最終的には主人公の碇シンジの世界を描くことで物語を終えました。
テレビ版では一人称の世界から出ていこうとする姿を描き(大変なエンディングでしたが)、
映画では、他者がいる世界に戻る姿を描きました(監督の当てつけという話もありますが)。
シンジの周辺には他者が描かれ、それでも成長しない主人公は視聴者の一部から批判されてましたっけ。
人間そう簡単に成長できたら苦労しないということもあると思うのですが、それはさておき。

Lain の場合、生命感に溢れた他者は作中にあらわれません。
というと、語弊がありますね。
なんというか、玲音/レインの心に届く他者がほとんどいないようにみえます。
岩倉玲音は碇シンジよりもよっぽど一人称の世界に身を置いています。
そうなる事情もあるのですが。
それこそ、成長しないなんて批判をする人は気持ち悪がって寄り付かない気がします。
考えてみたら、碇シンジよりも綾波レイのほうによっぽど似てるのか。
一人じゃないし。
レインはアリスと決別し、レイはシンジと決別してる。

そうだったのか(とか、自分で書きながら思ったり)
しかしエヴァのエピゴーネンとするのは、なにか違う気がします。
なんだろうか。


玲音は、一人称の世界にいる、と書きました。
しかしレイン/玲音は、一人称のままで前に進んでいこうとします。
自分が何者なのか、どうすればいいのか。
赤ん坊が他者の存在に気付かないままでもどんどん成長するように。
いや、そうではないか。
赤ん坊には母親という外界があります。
レインの場合、ワイヤードとリアルワールドということなんでしょうか。
それこそ玲音は、物語が始まった瞬間に生まれたわけで。
ワイヤードとリアルワールドの挟間で、他者と自我の境界もはっきりしない世界に身を置いている。
まるでそれは子供の世界にいるようで、実際、玲音は傷付きやすい子供のような。
そして彼女はワイヤードとリアルワールドが何なのか、探索していくわけだけど。


不思議な温かさを感じた、と書きました。
どうも僕は、レインが悩みながらも居場所を求めて進んでいく様に、元気な小さな子供を見ているときのような微笑ましさと驚きを感じているようです。
最後、行き場を失い途方に暮れるレイン/玲音には、本当に手を差し伸べたくなったというか。
そういう意味で康雄が玲音に対してしたことは、僕自身がしてやりたいことでもあったわけで。
観ていて、心底ほっとした、というのが大きいのかなぁ。


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<Layer 04>


一人称のままで前に進んでいくレインの姿は、小さな子供が成長するかのようだと書きました。
これって、どうなんでしょう。
子供に限った話なのかな、、。

レイン/玲音の有り様は、アプリケーションだという劇中の説明にも係わらずとても人間的です。
一人称で生きていると書きましたが、現実の人間とたいして違わない。
レインはリアルワールド、そしてありすという他者を求め、かなわなかった。
(なにしろ一人称だからやり方がまずいんだ。あれじゃありすじゃなくても拒絶するでしょう。)
そういう個人的な体験は一人称の世界の中でしか意味を持たない気がします。
うまい言い方じゃないな、、。


エヴァンゲリオンの主人公は、成長しないといって批判されました。
しかし、個人的な体験/一人称の世界でしかどうにもならない、意味を持たない物事はあるわけで。
そしてそういった個人的な事情を、成長しない、子供っぽいという言い方で否定する気になれない。
僕なぞは、むしろどんなに責められても頑として自分の一人称にこだわり続けたシンジの方に共感してしまって(w
批判する人は、自分の望むヒーロー像から外れてるのが気に入らないだけでは?とか考えたりします。
そうそう人間は、周囲の思いどおりになる必要はないわけで。
それが成長だというなら、何かの欺瞞ですね。
欺瞞だと知っていて演じられるようになるのも一種の成長ですけど、、それをアニメに求めてもなーと思います。


話がずれた気がします。

誰にも触れることが出来ない一人称の世界でしか、自我を守れないことがある。
でも、そういうあり方もあっていいんだと「Lain」という作品はいっているように感じます。
そしてそういうあり方は、康雄が認めてくれてるよ、と。

それが孤独だというなら孤独でも、レインみたいな小娘の内実でさえそうなんだから(w
まぁ、誰でもそういうものは、多かれ少なかれ抱えてるものでしょう。
もしかしたらそういう内実の写し身でもあるレインは、今日も誰の記憶に残るでなく、
だけど世界中に存在し続けているんだ、とか思います。



そういうわけで結局、
「Lain」という物語は仕掛けはでかくてサイコホラーでグロテスクだけど、けっこうセンチメンタルな話、ということで僕の中では落ち着いています。
なんか変な文章になってしまったな。。。
というか、僕の文章がセンチメンタルなのか(w

なにしろ、いろんな解釈が可能ですし、構築された世界はあまりに広い作品です。
感想文ということで、矛盾点などあれば、大目に見て下さい(弱気

(03.02.27.)







<これで終わるのもなんなので、
<Lain 字引きを作る予定です。
<Lain の劇中に使用されている
<分かりにくい専門用語の一覧表をつくろうというものです。

<ぼちぼちゆっくりとですが。






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