エイリアン9私的分析

分析というよりも思いついたことを書き散らしてるというか、、(w
気がついたら、エイリアン9というより富沢作品全般についての文章になってます。


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<あなた達なんかにお姉ちゃんの気持ちがわかるもんか>
 プロペラ天国/桜田子鐘


作者/富沢ひとし氏の表現は、大友克洋氏と比較されることがあるようです。だからその辺りから始めてみます。

大友克洋氏のSFコミックスは多くのフォロワーを生みました。
ダイナミックで攻撃的な雰囲気をかもし出すカラカラに乾いた絵柄は、僕も衝撃を受けました。
そこでは人間の感情は愚かその存在そのものも記号のように扱われ、全てが何か、部品のように扱われている気がします。

SF表現の手法には、想像力を駆使した常軌を逸した物語展開と同時に、登場人物の心象風景や感情の表現は極力排し何が起こっているかを淡々と記述していくやり方がある、と読んだことがあります。独特のスピード感と殺伐とした雰囲気を生み出す手法で、SFの持つイマジネーションに全てを集約させるような表現方法です。
そこでは人の持つ価値観は剥ぎ取られ、ストーリーもいつしか意味を失い、読者は作品の生み出した想像力の海に裸で放り出されるような感覚を味わうことになります。

大友氏は、そういったSF文学の(?)技法を、マンガで表現したと思います。
大友氏が童夢などで行った表現は、登場人物に感情移入することを拒否し読む者に不安を感じさせます。それは読んだ者全てに共有されたはずです。
読者は「感覚」を作品に支配され、ただ振り回され虜にされた気がします。
そこでは、描かれた「瞬間」が物語を超えていました。超能力で球形に崩れる壁の方が、物語より重要だった。
そこで語られたことには大した意味はありませんでした。読者にとっては、ダイナミズムとその反応としての感覚のほうが意味のあるものでした。一種、ドラッグがもたらすカタルシスのような快感がそこにはありました。
そんなマンガはそれまでありませんでした。

大友氏の初期作品はSFというわけではありませんでした。
しかし、そのころから独特の乾いた絵柄が独特の雰囲気を醸し出していました。それが大友氏の演出であり技法に裏打ちされたものでした。
大友氏が意図的にSFマンガにそれを持ち込んだのかそうでないのかは、わかりません。しかし、そんな大友SF作品の前後で、マンガは大きく変わった気がします。
物語よりも感覚を伝達するメディアとして、大きく表現の巾を広げました。
そしてその先には、岡崎京子がいて吉田戦車がいてしりあがり寿がいる、、。

とか、大友氏の作品について、個人的にはそんなふうに考えているのですが、、



富沢氏のコミック作品と大友氏のSF作品の共通項は、読者が感じ取る感触にあります。
人が日常的に持っている価値観が剥ぎ取られ、物語のダイナミズムに翻弄され、放り出されるような感じ。
しかし両者には決定的な違いがあります。
富沢作品の登場人物は、かわいいのです( w! )これはどういうことなのか、、、。



富沢作品のキャラクターたちは、皆例外なくかわいらしく描かれます。大友作品のような現実的なクールさとは対称的なキャラに見えます。

しかし、そのキャラクターたちの言動が問題です。彼等の行動の基準は、どうも我々の日常的な感覚とは隔たりがあるようなのです。
そんなことするの?というような言動、そんな目にあっていいの?というような状況に甘んじて「普通」とされているキャラクターたち。そして、そうした一種「異質な」キャラ達が「ふつう」になれる奇妙な世界。僕達に理解しやすいキャラクターは、その作品世界では浮き上がってむしろ居心地が悪そうな。
そして、そのうち読者は感じ始めます。
こいつらおれ達と同じような人間じゃないのかも、、だって、耳がでかいし、、。
キャラクターの行動を理解するのは、むしろ一見感情移入を拒む大友作品の方が簡単な気がします。
この曰く言いがたい微妙な異質感は、なんなのか。。。

人間は、おかれた環境によって価値観や行動原理は違ってくるものです。例えば他の民族の価値観、生活の常識は、ちょっと日本人の理解を超えることがあります。育ってきた環境、生活している環境によって人間は変化するものです。
富沢作品のキャラクターたちは、どこか決定的に我々と違うという雰囲気をもっていますが、作品と言うものは作者の思考から生み出されるもので、一人の日本人である作者を超えることはない、筈です。しかし富沢作品のキャラクターの動きは現代の日本人が生み出したもののように見えない。ネジのつき方が違っているのか?

実は、そんなことはないのですが。
富沢作品を読んでいると、キャラたちは実は普通の人間の子供たちだということがわかります。
ならば、この差異はどこから生まれるのか?作者の類い稀なセンス、といえばそうなのですが、、。



富沢作品では、キャラクターの感情表現は最小限に抑えられているように見えます。
極端に言うと、キャラクターが何を考えているのか分からない感じ、ストレートに心情が伝わってこない感触が常にあります。
作者の意図で、巧みに状況の描写のほうが読者に強く伝わるように描かれている。。。

大友作品は、最初は「異端」といわれました。曰くいい難い異質な感じ、読者の感覚に斬り込んでくる感じ。それは絵柄や、描き込み方のテクニックによってなされていました。読者に伝えられる情報の「質」が従来のマンガと違っていました。
富沢作品に、大友作品に見られるような斬り込まれてくる感じはありません。しかし情報の「質」が従来のマンガと違うという点は共通しています。
大友作品では距離感を形成していたのは絵のエネルギーでした。キャラクターの絵柄や背景、効果の描き方などの技法、アイデアが、独特の緊張感を支えていたように思います。しかし富沢作品では、むしろストーリーテリングによって、それを生み出している気がします。
意図的にキャラクターの情報が操作されている。

その結果として、読者は奇妙な物語世界の中に放り込まれながらも、キャラたちの傍観者の立場に立たされます。
従来のマンガは、キャラと読者の間に生まれる一種の不文律の共感から、読者をマンガの世界に誘います。富沢作品はそうではない。
キャラクターの「心情への共感」から物語に入り込むのではなく、むしろ読者は、キャラクターが直面する「状況」をあたかもキャラクターの傍でながめるかのように感じ取ることになります。
読者が感じ取る物語の状況から生まれる心情と、そこから予測されるキャラクターの言動。それと実際に描かれるキャラクターの動きとの微妙ながら決定的な差異。僕は、富沢キャラの持つ「従来のマンガにない異質感」はそんなところから生まれるのではないかと考えています。
キャラクターが異質というより、キャラクターの見え方が異質、ということ。


しかし、なんでそんなことしてるのか、、、


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<ぼくは もっと遊べる宇宙がいい>
 ミルククローゼット/虫くん


富沢作品から得られるカタルシスについて自分なりに考えてみます。

作品のダイナミズムから得られるもの。
作者によって、読者に伝えられる情報が操作されている、と書きました。僕は、富沢SFのエッセンスはこの辺りにある気がします。
富沢作品には読者の感覚を翻弄するようなところがあります。穏やかにストーリーが続く場面でも、何か足りない/何かがある、という感じが付きまといます。

というか、富沢マンガを読んでいると、まるで素人が描いたマンガのように感じることがあります。まるで昨日初めてマンガを見た人が今日描いてみましたとでもいうような。
作品の描かれ方、テンポ自体が従来のマンガとどこか明らかに違っています。
作者の演出によってなされた情報伝達の特殊さによって、富沢作品は常に揺らぐような感じを持ちながら進行していきます。
地面が常に揺れているような感触。

これは従来のマンガだと「意識しなくても得られる情報」が、あやふやなままに物語が進行していくからだと思います。
従来のマンガだと、読者はキャラクターの立場に立つと同時に、マンガの世界を俯瞰する立場に身を置きます。
キャラへの同一化と物語を俯瞰する2つの立場を行き来することによって、読者は作品を理解していきますし、作者はそのことを前提として読者に情報を提供します。

しかし、富沢作品の場合、ここが決定的に違う気がします。
従来のマンガでは、描く側も読者も意識せずに伝達していたような、マンガを読む上で必要な情報が操作されている、、。
伝えられるべき情報が足りない感じ。バランスが違うような。完璧なバランスで描き込まれた大友作品とは、対称的です。

おそらく、伝達される「感覚」の情報が違うのだと思います。 物語の情報を削るのではなく、伝達する「感覚」の情報を取捨選択して削り取ることで、物語の舞台が「常識を超えたもの」に変容する。

作者が操作している「感覚」が何なのか、といわれると答えに窮します。
個人的には、僕達が日常で感じている感覚をマンガに持ち込んだんだろう、と考えています。
日常生活の中で「あれ、おかしいな」「なんだろうわかんないな」と感じる多くの物事。1分後には忘却して無意識の彼方に消え去っている欠落の感覚が、情報を削ることで逆に持ち込まれているのではと思っているのですが、、。

そして、キャラクターについても同様の手法が使われている気がします。
そうすることで、「キャラから提供される共感」をベースにした伝達ではなく、読者が作品に入り込んで感じ取る感覚をベースにした伝達が可能になる。
キャラクターと同一化するのではなく、キャラクターとコミュニケーションする感じに近い、といえばいいか。
読者は、むしろ「主体的に物語の舞台に入り込んで感じ取る」ことを要求される。
僕が思う、富沢作品の根本的な新しさはこの辺りにあります。



富沢作品の場合、「俯瞰」「共感」の2つの要素に寄り添うことが出来ません。
俯瞰するには、物語の情報が少なすぎる、それどころか大筋と関係ない情報まで知らん顔で投入される。
キャラに寄り添うにも、寄り添ったとたん裏切られる。何を考えてるのか解らなくなる。

読者は、生身の自分の感受性だけでマンガの世界に入ることを要求されます。富沢作品を読んだ者の多くが「わけわからん」と口にするのは、おそらくこうした事情によるものです。従来のマンガを読み解く方法が、富沢マンガでは最初から作者によって奪われているのです。
「読者は、キャラクターが直面する「状況」をあたかもキャラクターの傍でながめるかのように」と書きました。
キャラクターの状況を俯瞰するのではなく、状況をキャラクターの傍で感じ取るように、富沢マンガの情報は造られています。これに慣れるまでは、しばし読者は「何なんだ、この作品は?」と戸惑うことになります。

そして、繰り返し読んで作品への入り込みかたを会得したら、、それでも「わけわからん、どうなってるんだ」と思うわけですが(w
しかし、それが富沢作品の他では得られない魅力と感じられてくるはずです。



富沢作品はコミックスというよりむしろ、アドベンチャーゲームのように読み解いていくべき作品ではないか。
そしてそこで伝達される感覚は「SF」の本質ではないか。とか思います。
「世界の見方はひとつではない」ということ。
コトバでわかっていても、日常の中で感じ取ることはめったにない感覚。

SFが生まれてから、多くの作品が作られてきました。
宇宙飛行、エイリアン、超能力、ロボット、メタモルフォーゼ、時間旅行、平行宇宙、電脳世界、文明の終焉、人の進化と退化、神と運命、、、
そして現在、誰も驚かなくなりました。SFの世界観は流通し尽くしました。
そんな状況の中で、新たな世界観を提供するのではなく、読者の感覚自体を賦活することでSFの感性を伝えようとする、、いえ、もともと誰もが心の底に持っているSFの感性を呼び覚まそうとするといったほうがいいか、、。
そんな富沢作品のあり方はとても魅力的だし、僕にとっては新たな興奮を呼び覚まされる感じだったりします。


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<何があっても あたしが守ります>
 エイリアン9/川村くみ


もうひとつの魅力はキャラから得られるもの。
一見取っ付きやすくもわけわからない富沢作品のキャラですが、上記のわけわからんを乗り越えて、あるいはうっちゃっていったあとにはキャラたちのドラマを読み解く楽しさがあります。
理解しやすいキャラもいれば、作者の種明かしがないと何考えてるんだか解らないキャラもいます。
しかし、富沢作品のキャラたちは大抵子供達です。わけわからんように見えて、実はドラマの根幹は、プリミティヴで人間的な心情に支えられています。幻惑されるような物語の展開の中でそうした人間的な心情が光るのが、富沢作品の大きな魅力です。

というか「物語としての魅力」はこっちがメインです。
SFマンガの表現としてスゴイものを持っている富沢作品について語るのも面白いのですが、SF表現と対称的に人間性が描かれるというのも面白いところです。
しかし、そもそも古典的なSFの傑作は、キャラクターのドラマを描いているものも多いのだっけ。「夏への扉」「歌う船」「惑星ソラリス」「アルジャーノンに花束を」など。
富沢ひとしの作品は、最先端の感性と古典的な魅力の両方を兼ね備えているといえるのではないでしょうか。
というか、それがなかったら、僕自身これほど富沢作品に魅かれるということもなかっただろうと思います。


このへんはあんまり書くとネタバレになるので、終わりにします。

なんで、富沢作品のキャラがかわいいのか書いてないですが、まぁ、いいか。
とりあえず、エイリアン9、プロペラ天国、ミルククローゼットを読め、と。いや、ぜひ読んで下さい。

(02.10.13.)






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